web-magazine yachting

cruising

  • Over Sea 海外
  • The Country  国内
  • Lecture・講演会・情報

ヨット<マイウェイ>の航海

“夢”実現へ。
夫婦二人、太平洋往復331日



photo

小松基衞 由美子

こまつもとえ 1946年函館市生まれ。北海道教育大学函館分校卒業。奥尻町、松前町、函館市の小学校に勤務ののち2006年に退職。現在、南北海道外洋帆走協会会員。北海道ヨットクラブ会員。

こまつゆみこ 1948年登別市生まれ。北海道教育大学函館分校卒業。登別市の小学校に勤務ののち1974年退職。現在、南北海道外洋帆走協会会員。北海道ヨットクラブ会員。


“夢”の実現に向けて

2007年7月18日、私と妻・由美子は私達のヨット<マイウェイ>に乗り函館を出港。48日目にサンフランシスコに到着し、その後ハワイ、父島などを経由し2008年6月12日、函館に帰って来た。 私は、幼い頃から海と船が大好きだった。家の200メートルほど前は海岸で、左手には北海道の汐首岬、右手には青森県の大間岬、その岬と岬に挟まれた向こうには太平洋が見える。小学生の頃は船の模型作りに熱中し、中学生になってからはそれに加え夏になると水泳と潜りにあけくれた。

高校1年の冬休み、たまたま堀江謙一氏の著書『太平洋ひとりぼっち』を読んだ。この年、堀江氏はたった一人、19フィートのヨットに乗り太平洋を横断し大きな話題になっていた。読み終えた時、心の中に「いつか自分も自分のヨット、自分の力で長距離航海をしてみたい」という夢が芽生えていた。

大学に入り、すぐにヨット部に入った。大学のヨット部の活動は私の思いとはかなりの隔たりがあったが、海に接すること、ヨットに乗れることで心は充実していた。就職して2年目には友人と共同でスナイプを購入したが、その後、結婚、子どもの誕生などで10年ほどヨットから遠ざかっていた。


松前町に転勤した頃、函館のクルーザーのグループに加わり、クルーザーの運用を一から学び始めたが、ディンギーとは随分違うものだなと思った。この間、クルージングやヨットレースに積極的に参加。時には江差、青森、室蘭、仙台、ナホトカなどへも航海の範囲が広まったが、近場を走るよりオーバーナイトのレースやクルージングのほうが私の性に合っていた。

 二人の子どもが大学、高校に入った頃から、妻の由美子もヨットグループに加わり、一緒に活動するようになった。1997年、そろそろ二人でヨットに乗りたいという気持ちが高じ、25フィートの中古艇(1974年製の「スプレンダー25NZ」)を手に入れてレストアし、<マイウェイ>と名づけて海に浮かべた。

私は自分の夢を人に語ったことはなかったが、由美子と結婚する際には、『俺はいつかヨットで遠くへ行くかもしれない。そのつもりでいてほしい』と伝えていた。しかし、由美子もどんどんにヨットにのめり込んでいき、私一人の夢は、いつの間にか二人の夢へと膨らんでいった。


2002年には現在の37フィート艇(「ミラベル375」当然これも中古艇である)を購入し、函館近海だけではなく奥尻、秋田、佐渡島へと航海の範囲が広がっていった。

2006年3月、私は定年まで1年を残し退職した。1年でも体力のあるうちに夢を実現させたいと考えたからである。6月には私達の技術と体力、艇の性能のテストを兼ね、ノンストップで函館から1000マイル離れた小笠原諸島の父島を目指した。が、この時期、本州南岸には梅雨前線が停滞していて海が荒れることが多いということも、よく理解していなかった。北海道には梅雨がないので感覚的にピンと来なかったのである。案の定、房総半島の沖では時化に遭遇してしまった。 

二人だけでの初めての経験だったがなんとか乗り切り14日目に父島の二見港に入港し、無事、岸壁に<マイウェイ>を舫うことができた。この航海から私達は多くのことを学ぶことができ、今回の航海に大変役に立ったと考えている。おそらくこの経験がなければ太平洋横断は不可能だったろう。


photo

2007年7月18日、函館港を出港して太平洋へ

函館に戻ってから次の航海の計画に取りかかった。コースはおおよそ函館〜サンフランシスコ〜ハワイ〜父島〜函館という太平洋を往復する約1年の航海である。出発にこぎつけるためやらなければならないことは山ほどあった。艇の整備、改造、補強、新しい部品の取り付け、航行資格の変更、太平洋の気象や海象の研究、ルートの検討、アメリカ西海岸の様子やマリーナの下調べ、食料、清水の計画や購入、積み込み、アメリカのビザの取得、英語の勉強、体力作り……。

資金が潤沢にあるわけではないので、自分達でやれることは出来る限り自分達でやる。それでもお金はどんどん出ていってしまう。友人達にも協力をお願いした。皆快く応じてくれた。途中で何度か挫折しかけたこともあったが、その度に私の夢を思い出し、自分を叱りつけ、気を取り直し、なんとか出発できる見通しがついたときにはもう2007年6月も終わりになっていた。この期間は充実感があると同時に精神的、肉体的に最もつらい時期だったと思う。


2007年7月18日午前8時、私達二人と<マイウェイ>は函館港を出港した。 学生時代の友人、ヨット仲間が大勢見送ってくれたが、どちらかというと静かな出港である。4400マイル先のサンフランシスコを目指すというような気負いもなく、いつものディセーリングに出かけるような気分だった。それでも、仲間のヨットのマストや見送りのため伴走しているヨットにはUW旗が揚がっているので少々感傷的にもなってきた。この日は東寄りの風が8メートルから10メートル吹いており、おまけに気温も低く、普段なら決してセーリングしたいとは思えないような気象状況だった。津軽海峡は常に東へ向かう海流が流れている。これに東の強風がぶつかると癖の悪いチョッピーな波が立つ。この日の波はいままでに経験したことがないほど悪い。バウデッキを時折波が越えていく。


2日目の夜にはさらに風が強まり12〜13メートル。セールを小さくリーフし、タッキングを繰り返し、なんとか東へ向かって帆走するだけである。ご飯を炊くような余裕もなく、由美子はきつい船酔いだ。由美子は出港して2日くらいは常に船酔いをするが、今回は特につらそうだ。『もう少しの辛抱だぞ』と声をかけて励ます。船酔いしている人に言わせると、酔っている時は話しかけられるのさえ嫌だそうだが、黙っているのもかわいそうだ。私は船酔いしたことがないからよくわからないが、船酔いとは最悪の二日酔いの状態と似ていると言われたことがあった。それならわかる気がする。


それでも21日になると風、波ともに少しおさまってきた。今日は私の誕生日だ。船の生活は単調になりがちなので、私達は事あるごとに無理やり理由をつけてお祝いをした。誕生日のご馳走はとっておきの函館五島軒のカレーライスである。由美子はまだちょっと船酔い気味で食欲がない。申し訳ないが私一人でおいしいおいしいと食べてしまった。


24日になると荒天もおさまり、船内の生活のリズムもできてきた。ここで普段の1日の生活を簡単に紹介してみよう。

乗員は2人なので、どちらか片方はコックピットに出てワッチをする。もう片方はその間、休養。大抵は自分のバースで横になっていることが多い。夜中から夜明けまでどちらかがワッチをし、朝日が上った頃、交代。5時から気象ファックスを使い天気図をとり、この後の気象を予想する。これが大体1時間半くらいかかる。7時からはアマチュア無線を使いシーガルネットにチェックインする。現在位置、気象状況、艇と乗員の状況を送る。日本からも今後の天候の予報などを送ってくれる。シーガルネットのメインコントロラーは札幌なので、時には北海道のニュースも送ってくれる。そのあとようやく朝食になる。

朝食は大抵昨日の夕食の残りご飯と缶詰で済ます。その後ワッチを交代し、12時20分からオケラネットにチェックインし定時交信を行う。内容は朝と同様だが、この1日2回の無線交信が非常に楽しみである。この無線交信で『私達は孤独ではないのだ。日本とつながっているのだ』という気持ちになるのだ。私達はクラブ局になっているので、時間の余裕があるときには由美子も交信することがある。昼食はラーメンやうどん、そば、クラッカー、クッキーなどで済ます。体のことを考えて積極的に果物(みかん、オレンジ、リンゴなど)も食べ、果汁を多く含んだジュースや果物の缶詰も摂取した。そのせいか体調は陸にいるより良いくらいだった。毎日、出るものもきちんと出る。

午後はまたワッチを交代し、4時頃から由美子が夕食の支度を始める。米を2合炊き、おかずはほとんど缶詰やレトルト。凪の時は味噌汁やおかずも作ることもあるが、船は常に揺れておりテーブルに食器を並べて家にいる時と同じように食べられることはめったにない。夕食の後、どちらかが夜中までワッチをする。1日の睡眠時間は合計しても4時間くらいだったかと思う。

もちろん、風の強弱に合わせリーフをしたり解除をしたり、風向が変化した時にはセールのトリムもしなければならないし、ウインドベーンの調整もしなければならない。あっという間に1日が終わる感じである。

退屈な時は読書でも、と積み込んだ本をほとんど開くことなくアメリカに着いた。狭い空間でのこのような毎日の繰り返しだったが、夫婦二人が47日の間、喧嘩をすることもなく過ごすことができた。小さなフネでの航海では互いの助け合いやかばい合いが必要だったからかと思う。大学の練習船に乗っていた大先輩が『わがままなやつは船に乗せると直る』と言っていたが、本当のようにも思えてくる。

 <マイウェイ>には最近の外洋ヨットにあるような電子機器はあまり積んでいない。資金が少ないせいもあるが、私の好みもある。私達が持っている電子機器といえば、文字だけしか出ないGPS、ウェザーファックス、レーダー、無線機くらいのものだ。ポジションは紙のチャートに落とす。天候は天気図を見て自分達で判断する。気象予報会社と契約して、その指示どおりロボットのように航海するなんていうのはまっぴらごめんである。

昔は、推測航法だけで濃霧の津軽海峡を走りまわった。私達の艇にはロランはおろかDFさえついていなかった。あるのはコンパスだけだ。耳を澄ませ、鼻をピクピクさせながら陸を探したり本船を避けたりしたものだ。

日付変更線までは天気が悪く、曇り、雨、霧、そして、7月、8月とは思えないような寒さ。私達の服装も冬と同じような格好である。ヨットにとって恐ろしいのは時化、無風、船体のトラブル、怪我、病気などいろいろあるが、ついにそのうちの一つ、嵐にも遭遇してしまった。

8月2日、低気圧が接近し、波、風とも強まってきた。スターンにぶつかる波のためウインドベーンが壊れそうだ。ウインドベーンの使用を止め、ラットをロープで固定し、スターンからロープを150メートル数珠にかけて流し、小さくしたジブだけで風下へ走らせる。ロープを流すのは艇が左右に振られるのを防ぐためである。コックピットでワッチをするのは危険だ。二人とも船内に入りそれぞれのバースで横になっていた。船は左右に20〜30度くらいずつローリングしていたが、いままで以上の大きな波が来たのだろう、ドッドーンという音とともに左舷側に大きく傾いた。右舷側にある箸立ての中から箸としゃもじがバラバラと飛び出てきた。ヨットは横倒し以上に倒れても起き上がるはずと信じていた。<マイウェイ>もすぐに起き、艇体も私達も異常はないようだ。さすがヨットは強いなとほっとしたが、全行程を通してノックダウンはこれ1回きり。我々は運が良かったのだろう。

日付変更線を越えたとたん、いきなり天気が良くなってきた。1週間か10日に一度はシャワーを使うこともできた。お湯は専用のビニール袋に水を入れデッキに置いておく。天気が良いと3時間くらいで、ちょうどいい湯加減になる。燃料はいらない。正真正銘のエコシャワーである。

ただ、真水は貴重なので一度に5リットルくらいしか使えない。由美子が3リットル、私が2リットルくらいか。体の大きな私のほうが少ないのはちょっと不公平な気もするが、由美子は女だからね。シャワーというより体を濡らして拭き取るくらいだが、それでも体はすっきりとなる。

ヨットには時折珍客も訪れ、私達の目を楽しませてくれた。時折トビウオがデッキに飛び込んで来るが、食べられる大きさのものはなかなか来てくれない。夜になるとマスト灯の明かりにひかれるのかフネの周りにたくさんの鳥が集まってくる。中にはデッキに落ちてくるドジなやつもいる。鳥もびっくりするのか、飛び立てずにデッキ上で大騒ぎだ。しかたがないので落ち着くまで抱いてなででやる。10分もすると自分の力で飛んでいくが、中には朝になるまでゆっくり休養してから飛んでいったのもいた。鳥の世界にも要領のいいのもいるものと感心する次第である。

時には陸では予想もしなかった珍しいものを目にすることもあった。千島の南海上では大きなクジラ2頭が私達の右舷側約20〜30メートルのところをゆったりと追い越していき、尾びれを空中に高く上げながらゆっくり潜っていった。大きさと背中の形からするとコククジラかなと思う。

月の光でできる虹も見た。昼間かかる虹と同じ形をした虹が月と反対側の水平線に出ているのが見えた。昼の虹と違うのは色がないことである。気象学的には特に珍しい現象ではないそうだが、見た人はあまり多くないようで運が良かったと思っている。

鳥もたくさん飛んでいた。陸から遠く離れた海上でどうしてこんなにいるのかと疑問に思うくらいたくさんの鳥がいるのだ。アホウドリの優雅な飛行ぶりを見ていると時間のたつのも忘れてしまう。

夕日や朝日もきれいだった。夕日がきれいなときは、明日も良い天気になりそうな感じがして心が和んだ。

月のない晴れた夜の星は見事と言うほかない。視界のある限り星だらけだ。函館は夜景がきれいだが、明るすぎて星がよく見えない。星のためにはライトアップもたまには中止してほしい。私達が航行している付近の明かりは私達の船だけだから真っ暗だ。だから星がよく見える。あまりにもたくさんの星が見えるので星座の形がよくわからない。理科の教師だった私でさえ、わかったのは北斗七星とオリオンくらいである。それだけ星の数が多いということだ。


photo

アメリカ大陸を“ランドフォール”

日本時間の9月2日、ローカルタイム午後6時頃、由美子がコックピットでワッチをしていた。由美子が『前のほうに、山みたいなのが見えるよ』と私に言う。私は『雲の見間違いだろう』と初めは取り合わなかったが、再び『やっぱり山に見えるんだけど』。それではと、私も出て行って見ると、まさしく山であった。アメリカ大陸である。大感激だ。

長い航海の後、初めて陸地を見つけることを“ランドフォール”といい、昔の帆船では誰がランドフォールするか競いあったという。最初にランドフォールしたクルーには賞金も与えられたそうだ。アメリカ大陸のランドフォールは由美子にしてやられてしまった。まあ良いだろう、アメリカはレディファーストの国だ。

日が暮れると、目標にしていたポイント・レイズの灯台の明かりが見えた。5秒に1回、白のフラッシュ。コースはぴったりだ。最後の夜は強風と寒さとの戦いになった。北からのカリフォルニア海流のため気温が一気に下がってきたのだ。おまけに回りには船の明かりがたくさん見える。今夜は二人でワッチだ。興奮しているのだろう、まったく眠くない。夜明けとともに風もおさまり天気も良くなってきた。サンフランシスコ湾にかかるゴールデンゲートブリッジが見える頃にはすっかり晴れ上がった。


早朝、VHFで「サンフランシスコ・ヴェセル・トゥラフィック・サービス」にコールした。これは、サンフランシスコ湾を出入りする船を安全のためコントロールするシステムである。私からのコールにすぐ応じてくれ、通関と入国と検疫の手続きの手配もしてくれることになった。どうやって入国しようかと心配していたので、これで一安心である。ゴールデンゲートブリッジを通過するとコーストガードから無線が入った。その直後、警備艇が迎えにきてくれる。堀江氏が入港したときと同じ快晴の日曜日の朝だ。湾の中からはクルージングに出かけるヨットが続々と出てきて我々とすれ違う。<マイウェイ>はコーストガードの警備艇に先導されており、スターンには日の丸、サイドステーにはイエローフラッグと星条旗を掲げてあるので、日本から来たヨットとわかるのだろう。すれ違うアメリカのヨットのクルーは皆にこやかに手を振ってくれる。「Congratulations!」という大きな声も聞こえる。ヨットの数は数え切れない。

警備艇に案内されジャックロンドンマリーナに着いた。日曜日だというのに、そこには税関の職員も来てくれている。通関手続きもスムーズに終わり、目指すサウサリートのマリーナに回航した。マリーナにいたアメリカやカナダのヨットマンが着岸を手伝ってくれた。そして、私達がノンストップで日本から来たことを知ると、拍手と歓声で祝福してくれ、自分のことのように喜んでくれる。アメリカに着いたという実感がじわじわとわいてきた瞬間だった。 私がヨットでの長距離航海の夢を見てから45年経っていた。

photo

太平洋横断航海を終えて、その後‥‥

太平洋横断航海を終えた後、私達と<マイウェイ>はサウサリートにしばらく滞在した後、モントレーまで南下して10月13日にハワイに向け出港した。そして、11月にはハワイ島ヒロに無事到着した。そこからホノコハウを経由し、2008年1月にはオアフ島のアラワイヨットハーバーに入港。そして、3月末には小笠原諸島の父島に向け出港した。

ハワイから父島への航海の際、トレードウインドのせいで常に大きな波が立っていた。<マイウェイ>が波の谷間に入ると、波を通して向こうに空が見える。ラムネのビンを透かして見ているような色だ。ほんの一瞬だが、水平線から上ったばかりの太陽が波の向こうに見えることもあった。こんな光景はヨット乗りでなければ経験できないことだろう。

4月27日、小笠原諸島、父島の二見港に到着。5月には銚子に到着後、エンジントラブルや台風、低気圧の接近などで行程がはかどらなかったが、6月12日、たくさんの人々が出迎えてくれたなか、331日ぶりに、母港の函館に二人とも元気な姿で帰り着くことができた。

こうして、私達の夢は叶ったが、それは夢を持ち続け、夢に向かってあせらずにあきらめずに少しずつでも行動してきたからだと思う。そして家族、友人、ヨット仲間、無線の仲間、アメリカで知り合った大勢の人たちのサポートがあったからできたものと考えている。決して私達二人だけの力で成し得たものではない。

24歳の時に初めて手に入れたスナイプの写真がアルバムに貼ってある。その横にこんな文章が書いてある。24歳の時に書いたものだ。  「夢ってえのを大事にしていこう、大事に持っていればいつか実現できるかも」 いま、一つの夢が実現した。これからはまた次の夢に向かって二人で頑張っていこうと思う。



pagetop
s

掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。