第4回 アテネオリンピック男子470級銅メダリスト 関 一人さん

オリンピックの舞台では”全人格”が試される

45年前の1964年に開催された東京オリンピックは、いまだ発展途上国だった日本を経済先進国へと押し上げる契機となった。ヨット競技の会場として新設された江の島ヨットハーバーも、その後の日本ヨット界発展のセンターとして機能した。  その江の島ハーバーで関一人さんと会った。  ベルリンオリンピック(1936年)への初参加以来、日本ヨット界の悲願だったメダル獲得。第28回アテネ五輪(2004年)470級で3位に入り、男子として初めてのメダルを実現した関一人/轟賢二郎チームは、いまのところ男子で唯一のオリンピック・メダリストだ。  現在、関東自動車工業でロンドン五輪出場を目指すセーリングチームのコーチを務める関さんに、オリンピックの素晴らしさ、あるいは難しさとはどのようなものか、また2016年東京五輪開催への期待をうかがった。

中学生のときから華やかな戦績

4年に一回しか誕生しないオリンピックのメダリストは、競技の種類を問わず、みな特別なアスリートだ。

最高度の身体能力と競技センスに加え、長期間にわたるキャンペーンを緻密に組み上げる計画性と、困難に耐えてモチベーションを保ち続ける不屈の精神力が要求される。心技体を高いレベルでバランスさせ、しかも、それを4年以上継続させるタフさがなければ、オリンピックのメダリストにはなれない。

関一人さん(33)のヨット選手としての戦歴は華やかだ。

小学生時代からOP級で頭角をあらわし、89年に日本で開催されたOP級世界選手権へ初出場したのは中学2年のとき。翌年もOPワールド(ポルトガル)に出場し、アジア大会(北京)ヨット競技OP級で優勝。土浦日大高校へ進学後は霞ヶ浦で腕を磨き、3年時は93年FJ級ワールド2位(ジュニア部門優勝)と活躍し、高校総体、国体では個人優勝してナンバーワン・セーラーとなっている。

日大ヨット部を経て関東自工入社後はナショナルチーム入り。オリンピックを視野に入れ、日本の470級トップセーラーとして活躍を続けた。2001年、クルーに轟賢二郎さんを迎えてからは成績がさらに安定し、世界ランキングでも上位に進出、最高は12位を記録した。

世界で戦えるとある程度の自信をつけたのは、オリンピックイヤー前年の03年470級ワールドで11位になってから。翌年年初の強豪が集まったオーストラリア選手権では3位に入る。5月にクロアチアで開催された470級ワールドは17位だったが、これは代表権を得るための大会だったので順位は気にしない。好調を維持し、世界ランキング14位で8月のアテネ五輪を迎えた。

現在、関東自工セーリングチームのコーチを務め、JSAFオリンピック特別委員会のスタッフでもある関一人さん。「次のメダリストを生み出すという夢を持ち続けたい」

アテネオリンピック、最終レースを終え銅メダルと確認したとき、"やったぜ!!"という気持ちが自然にわき上がった。それからは晴れ晴れとして涙は出なかった(写真:関一人氏提供)

逆転劇でメダルを獲得、あふれる涙

関さんは軽風下のタクティカルなレース展開をもっとも得意とするタイプ。幸い、アテネ大会が行われる真夏のサロニク湾はあまり風が吹かず、関/轟チーム向きの軽風が予想された(実際、強風だったのは1日だけだった)。男子470級は27ヶ国が参加し、競技は8月14日から始まった。

初日は格好の風が吹いたこともあって3位?7位という、本人がびっくりする好調な出だし。2日目は風が強く21位?18位と沈んだが、「もともと強風は苦手、自分たち向きのコンディションではなかっただけ」と気持ちをすばやく切り替えた(結果的に21位が捨てレースとなった)。3日目以降は「いつも通りの自分、オリンピックを楽しむ自分」を取り戻した。6レース中シングル順位を4回とり(第7レースにトップフィニッシュ)、最終日前日、1レースだけ残した時点で4位の好位置をキープした。

金メダルを争うアメリカとイギリスの2チームは抜群に強く、彼らには追いつけないが、3位につけるスウェーデンとは同点で、銅メダルは手の届く範囲にある。しかしこのスウェーデンチームは02年世界チャンピオンという強豪。今大会でも後になるほど順位を上げている。

それでも、運命を決める最終日を前にして、関さんは十分に平静だった。オリンピックという初めての経験を楽しむ余裕があったから変に緊張もせず、ここまで本来の力は出ていると感じていた。 「もちろんスウェーデンは意識しましたけど、ほかにも抜かれてはいけないチームがあるし‥‥心のどこかでは"もう、やるしかない"と思っていましたけど、あれこれ考えてナーバスになるより、いつも通りの自分を出し切ればいいんだ、そして最後まで楽しんで走るんだと考えていましたね」。ぐっすりと眠って最終日を迎えた。

最終日、関/轟ペアはレース前半でスエーデンに走り勝ち、後半は彼らをしっかりと抑えて11位でフィニッシュ。15位に終わったスエーデンを逆転した。

フィニッシュに向かう最後のコースを走っているとき、すでにメダル獲得を確信していた関さんだったが、離れていたスエーデンの順位がしばらくわからず、フィニッシュしたあと戸惑う時間が続いた。本来ならコーチボートがすぐに近づいてきて、結果を教えてくれるはずだが‥‥結局、他国のコーチボートから「おめでとう」と祝福され、ようやくメダル獲得を確認した。

「僕らのコーチはそのときうれし涙が止らなくて、すぐには動けなかったんですよ」と笑う関さんだが、その関さん自身、最後の下マークを回ってフィニッシュに向かっているレース中に、涙があふれて困ったという。 「轟に(涙を)悟られないようにするのに苦労しましたね」。"楽しんで走る"をテーマに掲げてキャンペーンを続けた関さんだが、4年の間、必死に耐えてコントロールしてきた緊張の糸が切れた瞬間だった。

)「メダリストとしては、子供たちにオリンピックの夢を伝えたい。セーラーの子には夢は叶うんだと言いたいし、ヨットをやっていない子にはヨットのことを知って欲しい」イベントでは参加者に触ってもらうので真っ黒ですが・・・と関さん

オリンピックの舞台では人間性が試される

OP級、470級などの世界選手権に合せて14回も出場し、アジア大会も2度経験している関一人さんだが、オリンピックはそれらとは全く別のものだった。もちろん厳しさのレベルが違うが、なによりも雰囲気が違う。それは全く経験したことのないものだった。

その特殊な雰囲気に呑まれず、実力を発揮してオリンピックメダルを獲得するには何が必要なのだろうか。

「オリンピックでは、結局、その人の人間性が問われるのではないか」と関さんはいう。  アテネ大会はアメリカ(金)とイギリス(銀)の2チームがダントツに強かったが、関さんにとって印象的だったのは彼らの素晴らしい人間性だった。「本当に人間的にも尊敬できる連中でした。技術もすごいけど、人格的にもかなわないなと思いましたね」

メダリストになるには最高レベルの心技体が要求される。が、それを実現するのはその人の過去を含めたトータルな人格であり、人間性だ。それが順位に反映すると考えておかしくはない。逆に言えば、いかに才能とセンスに恵まれようと、人間性が劣れば、オリンピックという究極の舞台で好成績をあげることはできないのだ。

関さんは明るく、そして謙虚な人柄だ。メダリストだから偉いんだといった高慢さはかけらもない。華やかな戦歴を持ちながら、僕はあまりヨットのセンスがないんですよ、スタートも上手くないしスピード勝負ができないし・・・などと平気で言って明るく笑う。

しかし真相は少し違うだろう。中学生のときにすでにオリンピックを意識し、そこへ至る道を自分で考え、自身の力で切り拓いてきた。レーサーとしては目先の結果に振り回されず、常に自分の立ち位置を確認してから次の課題を設定し、その克服に努力してきた。レースを求めて年間6ヶ月、ヨーロッパとオーストラリアを旅し、自炊しながら年間200日のセーリングを4年間続けた‥‥。

たゆまずに前進した関さんの人間性もまた素晴らしい。銅メダルはその反映であるが、積み重ねた努力が実体であり、メダルは「形」に過ぎない。「メダルが特に重いと思ったことはないですね」という関さんの言葉の意味は深い。


オリンピックという、いつもと違う雰囲気を楽しむことができた。
力が出せないということは全くなかった。いつも通りにできたこと
がメダル獲得の要因の一つ(表彰式。写真:関一人氏提供)

轟クルー(右)は優秀なセーラーだが、それよりもオリンピックで勝
ちたいという強いモチベーションが共通していて、それがペアを組む
最大の理由になった(写真:関一人氏提供)

2016年東京五輪では大観衆のいるヨット競技を

関一人さんが選手として参加したオリンピックの舞台は素晴らしかった。最高のセーラーたちが全人格をかけてフェアに戦う場だから、レーサーにとってオリンピック出場以上の醍醐味はありえない。

そして「選手であるなしにかかわらず、大きな感動をみなで共有できるところがオリンピックの本当の素晴らしさでしょう。匹敵するものはほかにありませんね」と関さんは言う。それが2016年の東京で実現すれば、まさに素晴らしいことだ。

日本のセーリング環境が進展することを切実に願う関さんは、セーリングへの関心を高めるためにも日本の次のメダルを期待し、そのために種目にこだわらずコーチという立場でセーリング競技に関わっている。その意味で実現すれば地元開催となる2016年東京は重要であり、日本ヨット界にとって新たな発展の契機になると考えている。

そのときには、フアンには「実際に海に出て、風を感じながら観戦して欲しいですね」と関さん。そうすることで、オカにいては絶対にわからない感覚、海とヨットの気持ち良さが実感できるからだ。

昨年の北京五輪ヨット競技では、最終レースだけだったが、大勢の観客を集めた防波堤のごく近くにレースコースを設定し、各クラスの金メダルが決定すると観衆が大歓声をあげたという。2016年東京五輪でもそんな工夫で一般の関心を引きつけ、ヨット普及に結びつけたいと関さんは願っている。

プロフィール

せき・かずと:関東自動車工業(株)本社情報センター勤務、同セーリングチーム・コーチ、日本セーリング連盟オリンピック特別委員会委員 1975年9月11日清水市(現・静岡市)生まれ、千葉市育ち。小学校2年の時、千葉ヨットビルダーズクラブのジュニアとしてOP級を始める。千葉市立磯辺第1中学、土浦日本大学高等学校、日本大学を通じてヨット選手として活躍。98年関東自動車工業株式会社入社、セーリングチームに所属。2004年アテネオリンピック男子470級で男子として初のメダル(銅)を獲得。「ヨットが上手くなりたくて」08年北京オリンピックを目指し現役を続けたが、最終選考で代表に漏れ、08年4月から同社セーリングチームのコーチに就任。

撮影・文 早川知加志
記事一覧を見る