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2021年04月23日

著名なヨットデザイナーの自分史は、
次代に受け継がれる戦後日本の外洋ヨット史でもある

あのころ ―ヨットデザイナーの履歴書  林賢之輔著

 敬愛するヨットの先輩、ヨットデザイナーとして著名な林賢之輔さんが、一冊の本を出版した。
 著書の題名は「あのころ ――ヨットデザイナーの履歴書」。文字通り、若き日の林賢之輔さんが、ヨットデザイナーを志し、日本を代表すヨットデザインナーとして、幾多の名艇を世に送り出すまでを克明に描いた、総ページ384ページにも及ぶ力作である。

 林賢之輔さんは1939年に神奈川県逗子市に生まれた。神奈川県の名門、横須賀高校を卒業後、立教大学物理学科に進学した。1960年代初頭の若者たちは、安保闘争や学生運動の最中、混とんとした日々を送る一方で、石原慎太郎さんの太陽の季節に代表される若者文化が眩しく輝いていた時代でもあった。湘南の海に育まれた林賢之輔青年は、そんな石原文学に触発されてか、湘南の海を満喫し、ヨット三昧の夏を過ごしていたという。
 そんな林さんが立教大学卒業後、就職が決まっていた大手カメラ会社にいちども出社せず、前途不安なヨットデザイナーへの道へと人生の舵を切ったのは、どんな思いがあってのことだったのだろうか。
 1963年に横山造船設計事務所に入社し、横山晃氏に師事した林さんは7年後の1970年に独立して、名実ともに、日本を代表するヨットデザイナーとしての第一歩を歩み出した。 それからは、ここでご紹介するまでもないが、一人ぽっちの太平洋横断航海で一躍時代の寵児となった堀江健一さんとの出会い、日本の外洋ヨット界が総力を挙げて挑戦したアメリカズ・カップで、チーフデザイナーとして重責を担い、25年も続いた親睦レースを主宰するなど、外洋レーサー、クルージングヨットを問わず、さまざまなヨットのデザインを手掛け、日本の外洋ヨット界に大きな足跡を残して今日に至っている。

 私事になるが、林賢之輔さんと出逢ったのは私が新米の雑誌記者時代だから、もう40数年も昔のことになる。当時の外洋レース界は、島周りのレースが盛んに行なわれたり、クォータトンカップ(24ft級)の世界選手権が相模湾で開催されたりと、興隆期を迎えた外洋レース界華やかなりし頃だった。そんななかで、当時、担当していた外洋ヨットの試乗記事を依頼したり、レースの講評をお願いするなどして、知己を得た。
 古巣の雑誌社を退いて、新しいヨット雑誌を創刊したときも、新企画の記事依頼を快く引き受けていただくなど、その後も、公私にわたってご指導を受けてきた。
 とくに、林さんに塾長をお願いした弊誌の「林賢之輔ヨット塾」には、定年後のヨットライフを模索するシニアヨットマンの多くが受講し、林塾長を慕う大勢のヨット仲間が巣立っていった。
本誌主宰の林賢之輔ヨット塾塾長として大勢のシニアヨットマンを育てる
 もう一つ、林さんの人柄を紹介するうえで特記すべき事柄が「KENNOSUKE CUP」のことである。
 1996年に第1回大会が実施されてからほぼ四半世紀、毎年1回、事故もなく継続されてきたこの大会の趣旨は「林賢之輔デザイン艇を愛し、林賢之輔さんの人柄をこよなく愛するヨットマンの集い」。
 昨年は、節目の第25回大会が開催される予定だったが、新型コロナ感染症の影響で残念ながら延期になった。林賢之輔さんは、名実ともに日本を代表するヨットデザイナーだが、ヨットの本質を熟知した林さんのデザインポリシーとそのデザイン艇、加えて、林さんの誠実な人柄を慕う仲間だからこそ、その絆も固く、そんなファミリーが一堂に会しての集いは25年にも及んでいる。
KENNOSUKE CUPで賢之輔ファミリーが一堂に会して懇親を深める
 最後に、あとがきに記してある林賢之輔さんの言葉の一部を引用して新刊案内を終わる。
 「私は子供のころからボーっと海を見ているのが好きでした。今でも、速く走ることより海の上でのんびり風に吹かれていることが好きです。そのような機会を与えてくださったみなさまと巡り会えたことに感謝しています」

 取材・文 本橋一男(yachting編集部)

あのころ ―ヨットデザイナーの履歴書 
林賢之輔著


● A4変形判 総384ページ
● 定価 2、200円(税込み)
● 発売日 4月20日
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