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2022年12月19日

古き良き時代を知るレジェンドのひとり、
大勢のヨット仲間に見送られて――

 多くのヨット仲間から、“タケさん”、“文夫ちゃん”の愛称で親しまれ、慕われてきた武村文夫さんが、9月16日、交通事故により逝去された。享年75歳。その、あまりにも突然に、帰らぬひととなった武村文夫さんの訃報に、哀しみ、惜しむ声は、いまも絶えない。
 
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 武村文夫さんは、1947年5月29日に横須賀市三春町で生まれた。
 兄の故・武村洋一さんの影響を受けてヨットを始め、神奈川大学卒業後、1970年にリンフォース工業に入社。ヨットデザイナーの故・武市俊さんと出逢い、武市さんのもとで本格的な外洋ヨット修業を始める。1972年12月にはリンフォース工業を退社して英国に渡り、大型帆船【シナーラ】号の日本回航クルーとして乗船し、英国リミントンから神奈川県の三崎まで、約半年間にわたって航海する。1974年にT&Mマリンエンジニアリング入社。ふたたび武市俊さんのもとで、さらにヨット技術の研鑽を積む傍ら、外洋レーサー<ローデム>、関西の雄<サマーガール>のクルーとして、その卓越した技量を如何なく発揮する。
 1992年には、アメリカズ・カップに初挑戦した「ニッポンチャレンジ」のショアクルーとしてサンディエゴにわたり初挑戦をサポート。2002年から約5年間にわたって佐島ジュニアヨットクラブのコーチを務め後進の指導にあたるなど、古き良き時代を知るレジェンドのひとりだ。

 武村文夫さん――髪の毛のふさふさしていた若かりし頃、【シナーラ】という大きなヨットを英国から日本まで回航してきた経歴を持つベテランのヨットマン、、、真夏のマリーナで、禿頭に玉の汗を搔きながらデッキの上で整備する姿が忘れられない、、、若いクルーと熱心に語り合う髭面の、柔和な笑顔、、、――どれもが、在りし日の武村文夫さんの人柄を言い表している言葉だ。兄のように慕う若いヨットマンから、長年、苦楽を共にしてきたベテランまで、武村文夫さんほど大勢の仲間に慕われた人はいない。
   
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 私事になるが、いまから40数年前、まだ、ヨット雑誌の記者だった若い頃に、確か、取材で訪ねたリンフォース工業の事務所で始めて武村文夫さんに出逢った。それから、しばらくして、三崎港に入港した【シナーラ】の船上で、真っ黒に日焼けした髭面の武村さんと再会した。
 その後、ヨットデザイナーとして独立した武市俊さんの事務所を訪ねたとき。あるいは、外洋レースに参加した艇上で、お互いの健闘を称えああったり、幾度となく逢って、その人柄に触れた。

 「ふみおちゃんという人は、その存在がまわりに安心感を与えることが出来る人だったんです。とくに、レース中でも、回航の時も、ストームジブやトライスルで走るような荒れた海で、冷静に、的確に仲間に指示を出し、トラブルを未然に防ぐ。決して興奮して大声を出すようなこともなく、安全に仕事をこなす。陸に上がっても同じように、まわりに安心感を与えてくれる人でした」
 (40数年来の友人で、ともに<ローデム>グループとして親交の深かった渡辺俊也さん)
 「オーナーを大事にしろ…、仲間を大事にしろ…、道具を大事にしろ…、フネを大事にしろ…、
 気になるところがあれば納得出来るまで直せ…、全部出来たら海を楽しもうぜ…」
 これが武村文夫さんの口癖だったという。

 海で遊ぶことは楽しい。でも、正しく遊ばないと危ない。海で遊ぶためには、海で遊ぶための知識、技術を学ばなければならない。それがシーマンシップであり、海で遊ぶための唯一の方法であり、すべてである――これは、文夫さんの兄で、日本のヨット界草創期の頃から活躍した武村洋一さんが残した言葉であるが、弟の文夫さんは兄の残した言葉通り、まさにシーマンシップを体現し、海の素晴らしさを語るに相応しいヨットマンだった。
 
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 大勢のヨット仲間に送られて、大好きな海に還って行った武村文夫さん、今頃は、兄弟そろって海の素晴らしさを語り合っているのではないだろうか。
 その暖かな笑顔はいつまでも忘れない、どうぞ、安らかにお休みください。

 Web-magazine yachting
 編集長 本橋一男