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海人伝説 「レジェンド」 たちの軌跡

第一回第二回

第一回

岡田豪三さん

ISPAクルーザースクール チーフインストラクター


 「レジェンド(Legend)」の語源は、「読まれるべきもの」という意味のラテン語からきているという。日本語に訳すと、伝説、言い伝え、現代の逸話、あるいは「偉人」という意味だそうだ。
 もう少しわかりやすく言うと、「伝説として末長く語り継がれるであろう人物」 または「伝説になるような物事を成し遂げた人物」とも言い換えられるそうだ。
 70歳を超えても現役のセーラーとして第一線で活躍し、初歩から教え、育てたクルーザースクールの生徒数は600人を超えるというISPAのチーフインストラクター岡田豪三さん(72歳)もそんな"レジェンド"のひとりだ。

 早朝の横浜ベイサイドマリーナ、桟橋に舫うクルーザーの前に心持ち緊張した4人の受講生を迎えて、ISPAクルーザースクール全6日間の講習が始まった。受講生4人のうち3人は初心者だという。「ヨット用語はまだあまりわからないし、クルーザーに乗ったのも数えるほど…覚えることが多くて不安です」と緊張した表情の受講生たちに、「午後からは海に出ます。教わったことをその通りにすれば何も心配することはありません。ヨットを楽しんでください」と話す岡田インストラクターの言葉に受講生の顔がおもわずほころんだ。


50余年のヨット人生で育まれたもの

 1945年(昭和20年)1月16日に生を受けた岡田豪三さんが生まれ育ったのは静岡県清水市。かつて清水市には商船大学(東京商船大学の前身)があり、大学主催の一般向けヨット教室もあったという。「父が商船大学の先生だったので、小さい時からフネには縁があったんです。小学生の頃には船酔いもしなくなり大学生に交じってヨットにも乗っていた。中学2年のときには本格的にA級ディンギーを乗りまわしていました。もともと身体が小さかったのでラクビーとか大柄な選手のやるスポーツは不向きだったのです」
 中学生のときから清水港でA級ディンギーを乗り回していた岡田さんは、このとき、「自分を生かせる」のはヨットだと直感したそうだ。そして、彼が選んだ人生設計の第一歩は「ヨット部のある大学に入ってヨットの腕を磨き、将来はヨットで飯を食おう」だった。

 1969年(昭和44年)、4年間の学生生活を終えて学習院大学を卒業した岡田さんが選んだ最初の就職先はヨット専門誌の老舗出版社だった。余談になるが、じつは、岡田さんと筆者とはこの出版社で同期入社、岡田さんが辞めるまでの1年半、同じ釜の飯を食った仲間だった。

小学生時代からフネに親しみ将来を夢見る

学習院大学ヨット部時代はヨット漬けの日々


20代、30代は貧乏生活のなかヨットレースに明け暮れる

 「学生時代はヨット漬けの毎日、それなりに充実した日々を過ごしました。大学3・4年のときにはヨット部を2部から1部へと昇格させ、4年のときは全日本インカレにも出場した。でも、大学を卒業してからが大変だった。当時、"ヨットで飯を食いたい"若者が生きて行くには非常に厳しい時代で、20代、30代は貧乏生活のなか、ヨットレースにのめり込んでいきました」
 ヨットで飯を食おうと心に決めた岡田さんだが世間の風は逆風、専門誌出版社や造船所、ヨット販売会社などを転々とする。そして、35歳になったとき、体調を崩し仕事を辞めたのを機に一大決心、妻子を実家に残して、1980年(昭和55年)の香港~マニラレースを皮切りに、ハワイのパンナムクリッパーカップに参加するなど外洋ヨットレースにのめり込んでいった。
 相模湾のシーボニアマリーナ~ハワイへ、レースが終わった後にハワイ~グアム~宮古島までレースに参加した<ティダ>を回航。この遠征で過ごした約7か月間のヨット生活がやがて岡田さんを大きく育んでいくことになる。そして、人生の転機となった「太平洋シングルハンドレース」参加への足固めとなっていった。

 1981年(昭和51年)、神戸ポートピア博覧会を記念して開催された太平洋シングルハンドレースに<タザキパール・オブ・ティダ>で参戦、サンフランシスコから洲本のサントピアマリーナ沖まで47日間で走り切った岡田さんだが、ひとりで、しかも他艇と競い合いながら太平洋を横断する苦労は並大抵のものではなかった。
 「いままでは仲間と一緒だったが、ひとりのレースはこれが初めて。大海原にたったひとり、他艇も見えず、無線で通話できるのは週に1回程度。孤独感に苛まれ、小笠原近海では3日間凪が続き、やることがなくて気が変になりそうなのを必死で抑えたこともあった…」
 そんな岡田さんが生涯の仕事として選んだ「ISPA」との出会いはもう少し先の話になるが、念願だった"ヨットで飯を食う"世界が現実のものとなり、この太平洋横断レースを無事完走したことによってその後のヨット人生を大きく羽ばたかせることとなった。
 このレース後から、広告会社でのマリンイベント担当としての活動を始め、沖縄⇒東京⇒仙台⇒函館と日本を縦断するヨットレースやジャパン・グアムレース(連続6回開催)などを企画し、自らも参加するなど数多くのマリンイベントを手掛けることになる。
 1984年(昭和59年)から始まったウインドサーフィンの世界大会「サムタイム・ワールドカップ」は93年まで10回連続して開催するなどして、日本のマリンシーンに新風を吹き込んだ。



47日間、たった一人の航海が人生の転機となった


そして、ISPAと出逢い、ヨット人生の集大成へ

 1980年代後半、バブル崩壊とともに混迷する日本経済の波はマリン業界を直撃した。華やかだったマリンイベントは姿を消し、それは、マリン業界苦難の時代の始まりでもあった。
 「いちばん堪えたのはカミさんの一言でした。これからさき、どうやって生活していくの…と。
 イベント企画も軒並み取りやめとなり、つぎの仕事の目途も立たない最悪の状態をどうして抜け出せるのか、真剣に悩みました。そして、年をとってもできる仕事は、と考えたたき「ヨットを教える」ことに生きつきました。そんなときに出合ったのがISPAが開発したヨットの教育プログラムでした」

 ISPA(Inteanational Sail&Power Assciation)は、カナダのバンクーバーに本拠を置くヨットの国際教育機関で、ISPAが独自に開発したトレーニングシステムにより、基礎を合理的に分解、解説したマニュアルをもとに、世界中のどこでも同じカリキュラムで指導することを目的にヨットスクールを展開している組織だ。

 「目からうろこでした。このテキストを使えば短期間で誰でもクルーザーに乗れるようになる。そこで、単身、カナダに渡りこのスクールを受講してインストラクターの資格を習得しました。そして、1998年(平成10年)から、当時、勤めていたシーボニアマリーナでISPAクルーザースクールを開講し教え始めたのです」
 シーボニアマリーナで開講したISPAの修了者は約10年間で240余名、2008年(平成20年)に拠点を横浜のベイサイドマリーナに移してからは、より充実した内容のもとに360余名の修了者を育て、その大半が確実にセーラーの仲間入りを果たしている。

恩師ボブ・センドーさんとの出会いがあって…


600人を超えるISPAの修了者は大半が確実にヨット界の仲間入りを果たしている

 「ヨットで飯を食えればいい」と、がむしゃらに生きてきた50余年のヨット人生を振り返って、いまは、多くのひとに「ヨットの素晴らしさ、クルージングの楽しさを広めたい」と静かに語る岡田さん。
 そんな岡田さんにヨットの魅力を訊ねると、「すべてを忘れてセーリングに集中できること」という答えが返ってきた。だから、スクールで講習するときも笑顔を絶やすことはない。ISPAクルーザースクールを知ってからはクルージングの醍醐味も味わった。クルージングの根底にある、「楽しむことを素直に享受する文化」におおいに共感し、バンクーバーを起点に、キューバ、タヒチ、ニュージーランド、東地中海などの海を巡ってきた。そして、いまは、忙しい講習の傍ら、機会をつくっては瀬戸内海の島々を巡り、ガイドブックにまとめることをライフワークとしている。
 「島が多く、干満の差が激しい瀬戸内海は、バンクーバーによく似ているんです」
 少年の頃からヨットにハマり、人生を賭けてヨットの楽しさを自身で体現した海の"レジェンド"、その語る言葉の一言一句に深い味わいを覚える。(文・本橋一男 写真提供・岡田豪三)