yachting(ヨッティング)は、海を愛するひとびとの総合情報羅針盤です。

連載 あるオールドソルティ―の追憶

第十九回  あの時  武村洋一

 そのレベルや密度はともかく、私の長いヨット人生で、「もはやこれまで!」と思ったことが2回あった。

 大学ヨット部、横浜の海。シーズンオフ目前の11月下旬だったと思う。体感温度は10度Cそこそこ、北東の風が強くて波も悪かった。レース練習中、我が艇は不覚にも転覆してしまった。木製A級ディンギーは自力再帆走できない。水舟につかまって救助を待ったが、他艇も自分のフネの操船が精一杯で他艇をかえり見る余裕もなく、救助は期待できなかった。15分、20分。冷たい海水に浸かって体温は下がるばかり。30分ぐらい経過した頃、意識が薄らぎ、まことにいい気持ちになって眠くなってきた。中度から重度の低体温症だった。ヤバイ!ここで眠ってしまえば死んでしまうだろうなと思った。クルーのY君も同じような状態だった。「眠るな。手を離すな!」顔面に水をかけて意識を維持する。沈艇は北東の風に流され、本牧の海岸に接近している。漂流、漂着、上陸。が唯一の生還への道だった。「がんばれ、眠るな」と声をかけながら流された。そして流れ着いた。

 当時、本牧の広大な海岸地帯は米軍住宅として接収されていて、金網のフェンスに囲まれ日本人立ち入り禁止(OFF LIMITS)区域だった。海岸に這い上がり、フェンス沿いに歩き、国道にたどり着いた。全身びしょ濡れ、立っていることさえきつい状態で、道路にしゃがみこんで震えるしかなかった。近くに電話ボックスも見当たらないし懐には小銭もない。
 そこに、1台のタクシーが通りかかった。立ち上がり、手をあげた。タクシーは止まったが、ずぶ濡れの二人の落ち武者を見てダメダメと手を振って発進しようとした。車の前にまわって拝み、頼みこむ。「座席には座らないで」ということでやっと乗車を許された。合宿所まで数分、合宿所にいたマネージャーにタクシー代を払ってもらった。
 合宿所では1隻帰ってこない、海上保安庁に連絡しようかとうろたえ状態だったから、ホットしたのだが、人間は無事でもヨットはどうなったのという新たな問題に直面することになった。
 まあ、この風じゃあヨットも出せないし、明日風がおさまってから本牧の海岸を探しに行くしかないな、ということでその日は落着。翌日ボロボロに壊れたヨットと破れたセールを回収した。
これが1回目の「もはやこれまで」の顛末で、私もY君も生きながらえた。

武村洋一 たけむらよういち

1933年神奈川県横須賀市生まれ。
旧制横須賀中学から早稲田大学高等学院、早稲田大学に進みヨット部に。
インカレ、伝統の早慶戦等で活躍し、卒業後は黎明期の外洋ヨット界に転じ、
国内外の外洋レースに数多く参加し活躍。3度のアメリカズカップ挑戦にも参画。
主な著書に「海が燃えた日」「古い旅券」。