yachting(ヨッティング)は、海を愛するひとびとの総合情報羅針盤です。

連載 あるオールドソルティ―の追憶

第二回  三原隆司のこと(2)  武村洋一

 2年遅れて早稲田大学法学部を卒業した三原は証券会社に入社、名古屋支店勤務となり、ここでも数々の武勇伝を遺した。
 会社の独身寮では、ごく自然に寮長と云うよりも、牢名主的な存在となった三原は、給料日毎に日本酒を樽で買い、部屋の中央に据えて寮の社員全員にふるまった。酒はあまり減らなかった。1ヶ月かけて残りの酒を飲み干した三原は、「やぁ、けっこう飲みごたえがありますねぇ」などとうそぶいていた。
 部屋の掃除はしなかった。当然汚れる。さすがに自分でも住みにくくなると、空き部屋に移る。前の部屋はしかたなしに管理人が掃除をする。その繰り返しを続けていた。冬服は夏の間窓際に吊るしっぱなし、片面の色が変わってしまった。夏服もそうだった。
 三原は日ごろ会社の営業用の軽自動車を使っていた。飲酒運転は普通だった。
 他の車と接触すると、車からゆっくり出てきて接触した所を眺め、さすり、「いいですよ」と静かに云う。相手は怖くなって、いくらかの現金を差し出し、素早くその場から去って行く。その夜の飲み代をポケットにねじ込んだ三原はなにごともなかったように次の目的地に向かう。だから、三原の車はいつもでこぼこだった。ボンネットのSUBARUのSがとれてしまい、みんなにウバルと呼ばれていた。給料は毎月前借りの清算をしてしまうと半分もなかった。
 でも、三原は海を忘れてはいなかった。東京に戻った三原は早稲田大学のキールボート「早風」に乗り始めた。そして、30歳の秋、遭難して死んだ。
 1962年11月3日 NORCの初島レース 小網代スタート→初島反時計回り→久里浜フィニッシュ 約60マイル*。この年は32隻のヨットが参加した。そして、その夜発達した低気圧によって海上は吹き荒れ、早稲田の「早風」と慶応の「ミヤ」、2隻のヨットと11人のクル―が亡くなるという未曽有の海難事故が発生したのだった。
 *)海の1マイル=1.852km

武村洋一 たけむらよういち

1933年神奈川県横須賀市生まれ。
旧制横須賀中学から早稲田大学高等学院、早稲田大学に進みヨット部に。
インカレ、伝統の早慶戦等で活躍し、卒業後は黎明期の外洋ヨット界に転じ、
国内外の外洋レースに数多く参加し活躍。3度のアメリカズカップ挑戦にも参画。
主な著書に「海が燃えた日」「古い旅券」。