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連載 あるオールドソルティ―の追憶

第八回  夏の合宿・回航  武村洋一

 夏休みに入ると関東の大学ヨット部の多くは千葉県館山湾で夏合宿を行うために、母港の横浜から館山へ艇団を組んで大移動をした。A級ディンギーとスナイプ級10数隻、エンジンを装備したエスコート艇なし。まず、横浜のヨットハーバーから三浦半島観音崎を目指し、観音崎からいっきに浦賀水道を横断して房総半島に取りつき、さらに南下するというのが一般的なコース。ヨット部年間スケジュールのうち、いちばん胸躍る冒険イベントだった。東京湾に出入りする大型船の数が、いまと比較するとまったく少ない時代だったからできたことだった。

 回航前夜、明るいうちに艤装、積み荷などの準備を完了し、ハーバーの片隅で出航の時を待つ。横浜―館山の距離約30マイル(約55キロ)。ディンギー艇団のスピードを平均3~4ノットとし、十分な余裕をみて翌日の明るいうちに到着できること、夜間帆走の時間をできるだけ短くすることなどを勘案して出港時間が決められる。いつの年も、その時間はだいたい02:00頃だった。

 ある年の早稲田大学ヨット部。ハーバーを出て、闇夜の帆走をすること約2時間。横須賀の沖にさしかかった頃、ようやく明るくなって集合しヨットの数を数えると、どうしても1隻足りない。“ヤバイ”“真っ青!”キャプテン艇が意を決して米海軍横須賀基地に侵入し、「ワンボート ミッシング!」と大声で叫んだところ、すぐさま武装をした港内パトロール艇が近づいてきて誘導され、桟橋にヨットをつけて上陸、つれて行かれたところが司令官の立派な部屋だった。部屋の中には、なんと、行方不明の2人が椅子に座って握り飯などを頬張っていたという。夜間帆走中、わけもわからず基地に紛れ込んでしまったということで、事情がわかり釈放。港外で待機していた艇団に戻って事なきを得たという、今では想像もできないようなほんとのお話。

 館山の海岸は海水浴場で、海の家が立ち並んでいた。なかに1軒、○○大学広告研究会という看板を掲げた海の家があって、おそろいのアロハシャツを着たにやけた学生がウクレレなど持ってうろついていた。なぜ、それが広告の研究になるのかまったくわからなかったが、当然、地元の女子高校生が近寄ってきて、○○大学と仲良くなる。

 こっちは甚だ面白くない。マストを担いで大声をあげて広告研究会の前を走ったりした。

武村洋一 たけむらよういち

1933年神奈川県横須賀市生まれ。
旧制横須賀中学から早稲田大学高等学院、早稲田大学に進みヨット部に。
インカレ、伝統の早慶戦等で活躍し、卒業後は黎明期の外洋ヨット界に転じ、
国内外の外洋レースに数多く参加し活躍。3度のアメリカズカップ挑戦にも参画。
主な著書に「海が燃えた日」「古い旅券」。